Ethical Issues in Qualitative Research(Marilyn Lichtman)

気づけば一ヶ月以上あいてしまいました!

コツコツ継続するのってやっぱ難しい。

はてなプラスの期間すぎてアクセス解析もできなくなったし。

ブログを書かずに何をしていたかというと、

帰省したり発表に追われたりマンガ読んだり・・・

あ、5月は面白いことにいろいろ誘ってもらった月でもありました。

・同期の勉強会

・中学校の放課後学習ボランティア

・PISA調査・海外教科書分析プロジェクト

こんな感じで環境に恵まれてとても刺激的な生活を送っています。

最近は英語論文ばっかりでどれも読みかけなので、発表したのを紹介します。また質的方法についてかよ!って感じかもですが。

Qualitative Research in Education: A User's Guide

Qualitative Research in Education: A User's Guide

このペーパーバックの第4章を担当しました。

  1. この章の内容

質的研究における倫理的論点、ということで、倫理的な諸問題を扱っていく。
・倫理的なふるまいの定義
・研究を行ううえでの主要原則
・問題の位置づけ
・質的研究に特有な不適切なふるまい
・一般的な科学研究における不適切なふるまい
といったことが主な内容といえる。

  1. 倫理的ふるまい

一般的定義としては、道徳的原則、規則、人や職業を律する基準
20c以降ようやく研究者の倫理が話題にのぼるようになる。

  1. 主要な原則

・傷つけてはならない
ex)看守と囚人の実験

・プライバシーと匿名性
研究記録に個人情報を残さない。

・秘密性
社会的弱者の立場に置かれている人はとくに。

・正しい情報を伝えられた上での合意(インフォームドコンセント)
研究方針は変更のたびにきちんと伝える。

・信頼関係と友情
信頼に足る環境を提供しつつ、友達関係は避ける。

・介入
研究デザインにおいて実験時間や場所が負担にならないよう配慮する。

・不適切な行為
「踏み込みすぎかな」と思った時点でアウト。

・データの判断
他者がどの程度この解釈を信頼できるかを判断できる材料を提示する。

・データの所有権と報酬
業績を共有すべきか否か。実際に利益が出る場合はまれ。

・その他論点
政治権力構造との関係、基準は万能ではないということ。

  1. 基準に関する問題

・研究計画書はどの程度のことを伝えられるのか?
・研究者自身が実験器具の一部である質的研究の特質を審査委員会はどう判断する?
・基準を侵した場合どう制裁を下す?
・審査委員会は大学における支配勢力→マイノリティをどう扱う?

  1. 科学研究におけるあやまち

・タスキーギ事件
梅毒患者の人体実験。

・David Baltimore
ノーベル賞受賞後、研究仲間のデータ偽造が明らかになる

・Sir Cyril O. Burt
一卵性双生児研究におけるデータ偽造。

大きな対価が得られる場合、有望な研究者でも倫理的判断を誤ることがある。

  1. 質的研究におけるあやまち

・Harry Wolkott
フィールドに入った部族の青年と性的関係を持つ。

・Laud Humphrey
ホモセクシャル研究において、見張りによって免許証番号を把握し、ランダム調査を装って訪問。

  1. 質的研究者に特異な問題

・Judyの場合
名前・施設名等を仮名にしたとしても周囲には露呈してしまう。

・Paulの場合
学校長が自閉症の生徒の家庭をフィールドに選択。断りにくかった可能性。(実際には境遇を同じくしていたので慕われていた)

・質的研究においては、対象(subject)というより参加者(participant)。敬意を抱く必要と切り離して見る必要とのバランスが難しい。

・インターネット上ではデータをとられることに憤慨する人もいるが、許可を得るのが困難。

  1. 基準の設定と維持

アメリカでは、全ての研究に直接もしくは間接的な審査委員会(IRB)の許可が必要。研究計画書の提出、インフォームドコンセントの徹底を求めている。

組織全体の許可を得るのが困難な場合→参加したくない場合それを表明してもらう形で通知を出す。

  1. まとめ

最終的には自分で適切なふるまいを判断せねばならない。原則に固執せず、ジレンマや葛藤を大事にするべきだ。

校内授業研究会における新任教師の学習過程(北田佳子)

関係ないアニメの話で恐縮ですが、今期は四畳半神話大系と荒川アンダーザブリッジにものすごく期待。



かなりはまってしまいそうな予感です。
特に荒川!
「他人に借りを作るべからず」がモットーのリクと利害関係を超越して接するニノとの交流という面では、だだっ広い意味で教育と関係しなくもないのか・・?まあそのへんもさることながらギャグセンスや表現手法が秀逸です。
今回は北田さんの論文。何度か授業研究会でお会いしたことがありますが、いつも心にすとんと落ちるような素敵なお話をなさる方です。

北田佳子(2007)校内授業研究会における新任教師の学習過程―「認知的徒弟制」の概念を手がかりに―『教育方法学研究』33,pp37-48

  1. はじめに

初任者教育の在り方は教師教育において大きな課題。公立中学校の校内授業研究会における新任教師の学習過程を二年間にわたる追跡調査によって描き出し、初任者教育としての可能性を検討する。

  1. 認知的徒弟制の場としての校内授業研究会

■認知的徒弟制の概念
認知的徒弟制による学習では、知識やスキルが脱文脈化した形で学習者に伝達されるのではなく、熟達者が実際の問題解決場面でどのようにそれらの認知的ツールをしようしているのかをモデルとして示すことで、学習者が徒弟的に学習していけることが企図されている。
認知的徒弟制は「内容」「方法」「配列」「社会学」の4領域で構成されている。
「内容」学習すべき熟達者の知識の種類
「方法」その目標となる知識を学習する手立て
「配列」課題をどのような順序で並べるか
「社会学」認知的徒弟制を成立させる学習環境の社会的な性質
このうち「方法」に着目。
さらに、「方法」のモデリング/コーチング/足場かけ/詳述/省察/探索のなかでもモデリング・詳述に着目する。
■認知的徒弟制と校内授業研究会の比較
校内授業研究会が教師コミュニティにおける同僚との協同で成立している社会的性質を強く帯びた学習の場であるなど共通点は多い。
ただし、課題の配列は簡単なものから複雑なものへデザインされておらず、新任教師も熟練教師も同様に複雑な授業を省察する課題に取り組む。周辺的参加ではなく十全的参加を強いられている。

  1. 研究の方法

■研究対象
二年間の校内授業研究会のDVD記録と逐語記録を対象とし、25回分のデータから新任教師とベテラン教師の発話プロトコルを抽出。
■分析方法
熟練教師の語りが専門家の見方を提供するモデリングとして、新任教師の語りは学習者の詳述として昨日していると想定し、談話スタイルの特徴と二年間の相互作用を追跡調査。

  1. 研究の結果

■調査前期
(第1回)
どちらにとっても初めてのスタイルの研究会。
新任:具体的な出来事は一度も登場せず、子どもたちを「男の子」「女の子」と漠然とした集団として捉えており、検討授業をどう省察してよいか視点が定まっていない。
熟練:具体的な出来事に言及せず「ルール」について言及。
→この時点では熟練教師においてもモデリングとなるような談話がまだ形成されていない状態
■調査中期
(第15回)
熟練教師の発言内容が大きく変化。
新任:発言の構造はあまり変容していない。検討授業における子どもたちの様子を自分なりに省察しようと試みる。
熟練:特定の子どもに焦点化し、具体的なエピソードを交えながら授業を省察するという語りのスタイルが登場しはじめる。
(第19回)
1年経過し、発話構造が似てくる。
新任:具体的な子どもがどのように周囲とかかわりながら参加していたのか、具体的な言動を交えて詳述。
熟練:気になる子についての詳述はあるものの、検討授業のなかで生起した出来事を解読するための一助とはなっていない。
いずれも授業者に関する発言が非常に少ない。
■調査後期
(第38回)
両者とも子どもと観察者に関する項目が著しく増加。質的にも変化。
新任:ある子どもについて昨年度の様子との比較やしぐさから意味づけを行う。
熟練:子どもたちの様子をつぶさに描写するだけでなく観察者としての考察も加える。授業者の問いかけが子どもたちのターニングポイントを生み出す機能を果たしていることを捉えている。

  1. まとめと今後の課題

①
新任教師の談話構造が熟練教師に類似してきた。授業をいかに見るか、またそれをどう語るかという教師の力量は熟練から新任へ「認知的徒弟制」の形で伝えられる可能性が高い。
しかし、熟練教師が研究会開始当初モデルとなるスタイルを有していなかったことが「認知的徒弟制」とは明らかに異なっており、教師の専門職性がここに表れている。教師のような複雑な専門性の発達は「適応的熟達化」の道をたどることが指摘されている。
「適応的熟達化」:決まったことを効率よく行えるようになるだけでなく、革新性や創造性も同時に発達させる熟達化。
「適応的熟達化」の過程では、たとえ経験を積んだ熟練者であっても新たな状況に対峙するときには一度「知的な初心者(intelligent novices)」に戻り問題と格闘しなければならない。
熟練教師にいち早く変化が現れたということは、「知的な初心者」が全くの初心者とは異なり、それまで培った経験や知識を活かし新しい問題に対処できる可能性を示唆している。
熟練教師は「知的な初心者」が「適応的熟達化」の道をたどりながら成長するという過程を示すことで、授業の見方に関してだけではなく、学び続ける教師像のモデルをも新任者に提示していた。
②
熟練・新任の談話スタイルが似てくる現象はつねにポジティブに機能するわけではなくネガティブな特徴も一緒に学習される可能性が明らかとなった。授業者への言及が極端に少ないという点が共通している。
③
「認知的徒弟制」のようにつねに熟練がモデルを示し新任がそれを学習するという一方通行の学びではないということも明らかになった。
最初に大きな変化が認められたのは熟練だったが、その後新任のほうが量質ともに上回る発言を行うこともあり、熟練が新任に学ぶ場面もあったのではないかと推測される。ある程度の経験を経ると、熟練と新任という固定した関係を声、双方の発言が相互に影響しあう結果にいたると考えられる。双方が互いの談話の特徴を自己の語りに取り込むことによって、より深い省察を伴って授業を解読している。
校内授業研究会では、熟練新任に関係なく多様な視点をもつメンバーの長期にわたる相互作用が教師としての学びをさらに発展させる重要なファクターになるものと考えられる。
■今後の課題
・教師の力量形成過程をより的確に捉えるために分析の方法を洗練させていくこと
・彼らの授業実践を調査の対象に含め、談話スタイルの変化と授業実践を調査の対象に含め、その関係を探求すること
・他の同僚や外部講師との相互作用も射程に入れ、教師コミュニティとして互いがどのように学びあい成長していくのか調査すること

感想

途中で気づいたのですがおそらく私自身もとてもお世話になった学校・先生でした。授業研究会に参加している先生それぞれの発言が大変あたたかく建設的で、授業を通じて獲得した学びを共有し深めあうというスタンスが強く印象に残っています。そのスタンスも一朝一夕に成立したわけではなくここで記録されている二年間の蓄積の賜物なのでしょう。
私にとってこの論文からの一番の収穫は「適応的熟達化」という概念でした。自分の研究にもぜひ取り入れていきたいところ。熟練→新任の一方通行ではなくお互い影響を与え合うという指摘もとても重要だと思います。

ただ、その根拠は薄く推測の域を出ていないので、そうした点を実証する研究があるとよさそうです。実証するためにはどうすればいいんだろう。。教師自身も意識していないレベルの話だったり要因を一つに特定できなかったりするので難しい部分が多いかもしれません。

研究レビュー 質的研究の10年(清水睦美・内田良)

1Q84 BOOK3読んでて更新が遅れました。あとアルバムひたすら聴いてたり。
村上作品は読んでるうちに自分の遺伝子が組み変わってく(?)といったら大袈裟かもだけど、読む前の自分とは違う自分になってるような読後感が好きです。ぐいぐい読ませるし。
というか本に限らず音楽とか映画とかあらゆる作品で感動したりいいなって思えるものって、自分の思考なり世界観なりの変容をもたらすものなんでしょうね。現象学ぽい。
誰か言ってそうだな〜と検索してたら、
豊かな文学的感動をよびさます授業の構想と指導
―文学的感動の“仮説的構造モデル”構築への試みー
森畑敏昭
http://www.naruto-u.ac.jp/kyozai/toukei/d/main_5_1.html
というのが出てきました。興味と近いのでまたここにも書くことになるかも。
興味と近いと下手なこと言えないなって思って沈黙してしまいがちなんですが、ダメだなと反省。。。この前のゼミもそんな感じになってしまった・・・
前置きが長くなりましたが、最近質的研究についていろいろな講義で扱われているので、概観してそうなものを探してみました。

清水睦美・内田良(2009)研究レビュー 質的研究の10年ー『教育社会学研究』を中心にー教育社会学研究84,pp103-115

  1. はじめに

先鞭をつけた北澤・古賀以来の1997年〜2008年の『教育社会学研究』。
221本の論文のうち、観察記録、インタビュー等が一部分でも参照され具体的に位置づけられている74本を対象とした。

  1. 問題関心はどこからくるのか

イギリスを中心とした「新しい教育社会学」を標榜する研究潮流の影響による。
学校の内部過程を対象とし、教育知識の配分とカリキュラム構成、教師と生徒の相互作用など、いわゆるブラック・ボックスに着目した研究が積み重ねられる。
また、新しい動き(高校教育改革等)に注目してその位置づけに取り組む研究も。
→質対量論争のもとで問題視された、質的調査の実証性に拘っているところに共通点あり。しかし、その傾向は主流ではなくなってくる。

  1. 研究領域は、どのように広がり、どのように深まるのか

ニューカマーを対象とした研究が、質的データを用いた実証研究の様相を呈して始まる。
そのなかで実証性とは一線を画した研究も。児島(2001)は先行研究において受動的に描かれているニューカマーの子どもたちをそれに対抗する諸力を持つ者として描き直す=研究者としての明確な立場がある。
→これまでに蓄積された研究によって醸成されてきた研究対象に対する固定的な分析視角を相対化する潮流はニューカマー研究に限らない。
また、理論化された分析枠組みを用いて質的データを集めることで実践的な問題提起をする方向性もある。

  1. 構築主義の影響

構築主義の系譜
「社会問題をめぐる系譜」「物語叙述をめぐる系譜」「身体をめぐる系譜」それぞれの位置にある論文を紹介。構築主義や臨床研究の潮流はフィールドにおける知の自明性を問い直し、知がいかにして立ち上げられていくのかを追究する動きを生み出している。

  1. 報告のなかの調査者

調査者と対象者が積極的に影響を与えあう可能性は、記述されない限り明らかにならない。
調査者の立ち位置を次のように分類。
(1)「社会科学」の調査者
調査者と対象との相互の影響について、具体的には言及しない。
(2)関わりを顕在化させる調査者
調査者と対象者との相互の影響について、具体的に言及する。
a)関わりを見せる調査者
相互の影響を具体的に記述するものの、その影響がデータや分析のなかにどう反映されているかについては保留の態度をとる。
b)関わりを資源化する調査者
相互の影響について積極的に触れる。データや分析の提示において、影響が一つの重要な資源となっていることがわかるよう明記する。

  1. 関わりを顕在化させる調査者

■関わりを見せる調査者
自身の立場を自覚し記述することで、それを通してデータが解釈されるべきであることが意図される。
■関わりを資源化する調査者
関わりをデータの随所に書き記し、関わりがもつ影響を積極的にデータのなかに表現しようとする。
清水(1999)は自身が再構成したインタビュー記録を対象者に読んでもらいクレームを出してもらう作業を経て、対象者がもっているコードを顕在化させるという方法をとる。
現場との協同を研究活動のなかに組み込む「アクションリサーチ」は、そもそも調査者が最初から一つの資源として調査研究のプロセスに明確に位置づけられており、関わりが報告のなかに積極的に表現されやすい。
清水(2006)は現場に対して研究成果、報告の「再埋め込み」を行い、こうした一連の営みをまた一つの報告としてかたちにし、対象者との相互作用関係の展開過程を記述する。
倉石(2007)は調査者と対象者が積極的に影響を与えることを記述する以上に、調査をとおして自身が影響を与えられたこと、感じ取ったことを記述する。徹底した自己言及を行うという方法であり、こうした自分自身を研究の対象に据える方法は「自己エスノグラフィー」につながる。
■関わりの資源化はどこに向かうのか
アクションリサーチの目標は、現場の事態を積極的に改善すること、あるいは研究成果のオーディエンスが自ら現場を変革していくことに向けられる。
■方法と内容の緊張関係
白松(2004)は「何を知ったか」を明らかにすることを目的として、そのための手段として「いかにして知ったか」の記述を用いる。Holstein and Gubriumは従来のインタビューが内容を焦点化してきたのに対して内容だけでなく方法にも注目すべきとして、インタビュアーが意味の産出に関わっていることを積極的に認めそれを分析に組みこむアクティブ・インタビューを提唱。方法と内容のバランスをとることがねらい。
このバランスをとり、報告のなかに表現することが今後質的研究に求められる一つの課題となるのではないだろうか。

感想

(時間がきたのであとで書きます。研究すること自体が持つ対象への影響といった倫理的側面やアクションリサーチに関心を持っていたので興味深かったです。)

児童の経済学的思考の発達:商品価格の決定因に関する推理(藤村宣之)

わかる学力(概念的理解):協同的、内発的
できる学力(手続き的知識、スキル):競争的、外発的

この二つの学力は相補的な関係を持っているけれど根幹になるべきはわかる学力。
発達段階に応じた、大人とは違う様式による理解を行っている子どもに対しては、
それぞれの段階の理解にフィットする教え方がある。
子どもの持つ、素朴概念+これまで学習したこと=既有知識との関連づけがその鍵となる。
ということが藤村先生の基本的なスタンスだと思います。(違ってたらすみません)
教科にとらわれず子どもの「わかる」とはどういうことかということを探求しています。
今回はこちら。

藤村宣之(2002)児童の経済学的思考の発達:商品価格の決定因に関する推理ー発達心理学研究,13-1,pp20-29

■問題
先行研究の課題
・異種の商品の価格差を扱うなど、価格と価格の決定に関わる要因間の推理が体系的に明らかにされていない
・フリーインタビューが用いられ、児童の推理における因果のつながりが体系的に明らかにされていない
・経済学的な観点からの価格の決定因の整理が不十分
目的
・経済学的因果関係の推理において考慮される要因の発達的変化を明らかにする
・経済学的因果関係に関する推理の多様化(視点の並列的統合)と系列化(視点の直列的統合)を検討する
・商品の性質による経済学的因果関係の推理の差異を検討する
■方法
埼玉県下の公立小学校4年25名5年33名6年24名に、絵カードを呈示し、どうして価格差が生じるのか自分の考えを表現するよう求めた。
内容:5月/12月のイチゴ、日本産/中国産のマツタケ、手作り/パック入りの豆腐、小袋3連/大袋のポテチ、ポケモン/絵なしの消しゴム。
■考察
小学校4〜6年にかけて、商品の利用価値などの消費者側の要因に加えて、供給量、コスト、利益といった生産者側の要因を価格と因果的に結びつけるようになることが示された。
また、児童の思考においては、収穫量の季節による差異、生産形態や産地の差異、消費者の嗜好の差異などが、
1.需要2.供給量3.生産コスト4.生産者の利益5.商品の品質や利便性
といった5つの要因を介して価格差と因果的に関係づけられることが示された。(3、4は高学年に多くみられる)
推理における要因の選択や統合は、商品の特質や比較の次元に応じて適応的に行われることが明らかになった。
それらの思考には、素朴な形態ではあるが経済学における諸変数間の関係や対象の分類に関する理解が表現されていると考えられる。
■今後の課題
児童に生産者側の要因、特に利益や売り上げの考慮がどの程度まで可能なのかをより詳細に検討すること
より自由に推理を展開させるには、子どもに価格の高低を判断させる、設定させるといった場面の設定が有効かもしれない
価格に関連する要因間の関連を厳密に明らかにするために、より統制された場面で価格の決定因に関する理解を検討すること

感想

既有知識をどのように動員して推論を行っているのかを測定するためによく練られた研究だと思います。自身も卒論でインタビュー調査を行いましたが、興味のむくまま何となく面白そうなところをきくだけになっていたなと反省。因果を問う体系的な質問(こうきたらこうきく)をあらかじめ設定しておくことで客観性を多少なりとも担保できるのか。
ただ、その質問にいたる過程にだいぶ個人差がありそうですね。質的と量的とのかねあいはやはり難しいのでしょう。子どもそれぞれに多様なバックグラウンドがありながら、推理における要因の様相が学年によって傾向をもつのが興味深いです。経済学的思考というのはいろいろな要素がからみあって成り立つものなので、概念的理解をみるのに適していますね。
個人的には自分の経済学的思考が小学生レベルとさして変わらない(=挙がっている以上の理由をあまり用意できない)のが気にかかりました。。。
イチゴ(5月300円12月600円)に関していえば、
・クリスマスでケーキに使う(需要)
・あまりとれない(供給量)
・あまりとれなくて珍しい(供給量、希少性)
・あまりとれなくて手間がかかる(供給量、コスト)
・あまりとれなくて安いともうからない(供給量、利益)
・甘いから高い(品質、無関連)
・その他
が挙がっていますが、他にあるでしょうか。。。高くして高級感をアピールするとか?
まあ因果のつながりをどう表現するかが重要であって、これ以上思いつくかどうかは本題ではないかもしれませんが。
「ある科目もしくは分野を研究するならそれに関して大学レベルの理解をしてないと」という言葉が印象に残りました。

明治期における学生男色イメージの変容(前川直哉)

両親の二泊三日の東京観光は満足のいくものだったようで、
自分なりにちょっと親孝行できた感じでよかったです。
まだまだすねかじりまくりなわけですが・・・
川の字で寝るなんてことは妹が生まれて以来ほとんどなかっただろうし、
なんか必要以上に感傷的になってしまったりしました。

今回の論文はちょっと変り種になるかもしれません。教育社会学の分野にもあたろうと思って物色していたら、想定外のタイトルがあったので読んでみました。

前川直哉(2007)明治期における学生男色イメージの変容―女学生の登場に着目して―「教育社会学研究」第81集p5-23

■はじめに
課題:明治期における学生男色のイメージや表象の変容を検証し、男子学生を取り巻くどのような状況の変化がこれらの変容の背景にあるのかを考察すること。
ポイント:当時の男色や学生男色に関する言説ばかりでなく、それらを排除したり衰退させたりする動きの側、すなわちヘテロセクシズムがどのように展開したのかという点に注目。男子学生とヘテロセクシズムとの関係を考察する上で非常に重要と思われる「女学生の登場」や「恋愛概念の変化」などに着目し、これらが当時の男子学生に関する言説や学生男色イメージにどのような変容をもたらしたのかを検証する。
■ファンタジーとしての学生男色とその限界
男女間では「智力の交換」や「大志の養成」が不可能であるという前提のもと、それらが可能な男性同士の関係を、男女間の関係よりも優れていると主張する記述→明治期の(硬派な)男子学生たちのエリート意識とも合致。対等な男性同士の親密な関係性としての男色を理想視するファンタジーが共有されていた。
限界:理想的な関係が、小説などの文学作品という虚構の中でのみ成立しているという点。女性が小説中に一切登場しない。
■女学生の登場
女学生の急増:男子学生の「男女交際」の相手役として新たに女学生を想定することができるようになったという変化。
「恋愛」が情熱的・神秘的な概念とは異なり「結婚」へとすんなり直結する非常に現実的な行為の一つに。
結婚に接続する新たな「恋愛」概念の普及は芸娼妓や遊郭の女性などに代わり学校による教育を受けた女学生が想定されるようになったことと深く関連。男子学生たちに新たな幸福イメージをもたらす。
以前は「家庭」が言説上の理想像でしかなかったが、恋愛対象、将来の結婚相手と想定しうる「女学生」の存在を通じて、将来の「スヰート,ホーム」を夢見ることが可能に。→「家庭」は男子学生にとってもある程度現実的な幸福の姿として、より身近にイメージできる存在に。
反社会的なエネルギーをも持ちうる激情としての恋愛の魅力に代わり、一生続く穏やかで暖かい幸福を約束する(と思われる)新たな恋愛の魅力が男子学生の前に出現した。
■学生男色イメージの変容
女学生の登場で、学生男色が「男同士の恋」「同性の恋」などとも表現され、学生男色が硬派学生の占有物とは認識されなくなる。→男色はもはや硬派ではなく軟派が行うこととされ、認識が180度逆転。
従来のような「硬派=男色/軟派=女色」ではなく、「硬派=下級生に鉄拳制裁/軟派=下級生と淡い男色(チゴさん)」へ。
恋愛対象としての女学生の登場により、男子学生にとって「恋」「恋愛」がより身近な概念となり、それらに対する憧れが増し、「男子学生同士の親密な関係」も「男女間の恋の代替物」のように認識されていった。
「結婚」を後ろ盾とする異性間の「恋愛」が、同性間の「恋愛」にない正統性を獲得する過程=ヘテロセクシズムの制度化→同性間の恋愛は「まがい物」として周縁化。
芸妓らとの交流が学生の「堕落」と表象され負の要素とされていたためにそれに対抗するために学生男色が自己正当化されていたが、女学生との恋愛は結婚・家庭へと結びつく関係であり、従来の学生男色が新しい男女交際へのアンチテーゼとして持ち出されることはなかった。
大町桂月の言説(硬派学生のイデオローグ)→「恋愛」が女性側により親和的であるという価値観をもたらし、「男性の脱恋愛化」を促す。
家庭においては「一家団欒」が追求すべき価値とされながらも、近代的な「男は外、女は内」という性別役割分業により、家庭内の責任者は女性に→男性は「家庭の和楽」を構成する一員でありながら、本来の居場所は家庭の「外」とされる。
「男性の脱恋愛化」言説は、「恋愛」や「恋愛ー結婚ー家庭」幸福イメージを受容するか排斥するかで男子学生を二分。「恋愛受容派=軟派」「恋愛排斥派=硬派」へ。
以前の硬派学生の理想「対等な男同士の関係」は「男性同士の性霊の抱合」「朋友の道」と説明される。(あくまで恋愛とは別の関係)
「男は外(社会)」「女は内(家庭)」という領域分担:男性による外(社会)の独占→社会において結ばれる紐帯の相手が「朋友」「親友」→「友情」が男性の占有物とされる。
■おわりに
女学生の急増以来、男子学生同士の親密な関係は、
軟派学生たちを中心とする「男同士の恋」→異性間の恋愛感情の代替物
硬派学生たちを中心とする「男の友情」→「恋愛」とは異なるものとして無害化
という二つのパターンで認識。ヘテロセクシズムから逸脱しない形態へと解体されていった。
当初は肯定的に受け止められていた学生男色が支持されなくなっていった
理由について、先行研究では通俗的な性科学の流行や「同性愛」概念の登場に求めてきたが、学生男色イメージ自体の変化も大きな理由だ。

感想

いろいろ興味深いです。まとめる際には逐一触れていませんが、引用されている文献も読み応えがあります。教育心理学の論文とはだいぶ趣きが違って、歴史資料から言説分析を論理的に行って考察を加えるスタイル。
納得のいく説明が与えられているように感じました。
このテーマにあたる際には現代の「腐女子」ブームを想起せずにはいられません。この論文の学生男色イメージの主体は男子学生自身ですが、腐女子はまさにファンタジーとしての(学生)男色を生産し消費しているわけで、女学生の登場によって男子学生の中では薄れたとされるファンタジーが女性によって復活・再生させられているのはとても面白いことだと思います。男女間では「智力の交換」や「大志の養成」が不可能であるという前提のもと、それらが可能な男性同士の関係を、男女間の関係よりも優れていると主張して、対等な男性同士の親密な関係性としての男色を理想視するファンタジーを共有する、というのは腐女子の根底思想の説明としてほぼ通用するのではないでしょうか。それに加えて女性が自らの女性性を忌避した結果であるとか男性が攻められているさまを楽しみたいからとかいろいろバリエーションはあるのでしょう。
この論文では男女間の「恋愛(=結婚へとつながる概念へと変質しつつあった)」に特権が付与されて同性間の恋愛がまがいものとして周縁化されていったとしていますが、そうしたヘテロセクシズムが浸透して常識となっていった結果、現代においては、反社会的なエネルギーを強く有し結婚などの現実の制度と断絶したものとしての恋愛を虚構の世界に求め、”「男性同士の恋愛こそ結婚に回収されないからこそより真実の恋愛だ」などと特権化する”腐女子文化が興隆しているのかもしれません。
では百合萌え男子については?
同様に、もしくは反転すれば説明可能なのでしょうか。
面白そうだけどよくわからないし支度をせねばならないので一旦ここで終わりにします。
朝からちょっと刺激的でした。

六年制教員養成の問題点(佐久間亜紀)

今週末は両親が上京するため更新できないかも。
もんじゃを食べにいきます。

今回は論文とは少し違って、寄稿を紹介します。

佐久間亜紀(2010)六年制教員養成の問題点-国による教師教育の再統制化-「現代思想」2010年4月号

■教員養成六年化浮上の理由
・免許更新制度廃止に代わる資質向上策を示す政治的事情
・「社会全体の高学歴化によって、教員の社会的地位が相対的に低下し社会的尊敬を得にくくなった」という認識
・教員養成系大学・学部からの「四年では足りない」という声
・教職の専門職化を促進するには免許取得要件を学士号から修士号にレベルアップすべきという指摘
■修士号取得義務化に関する問題点
・教員志願者減少に拍車がかかる(経済的・時間コストを回収できるかわからない。六年制を導入した薬学部では減少)
・志願者の幅が狭まる(教員免許の開放制の良さが失われる)
・教員養成機関の減少(スタッフの4割が実務家教員等制約も多く、採算にあわないと判断する私立大学)
・免許保持者の供給不足(2018年頃に退職者数ピーク→2〜3倍の倍率で試験を行いたければ教職大学院を現在の60倍の定員にしなければならない)
・カリキュラムの中身が高度化するとは限らない(修士号が教育系限定の場合他の専門教育が縮小してしまうしどの分野の修士号でもよいとしても1年間の教育実習で実験等ができなくなる)
・財政負担が重く、修士号にみあう給与を準備できない(退職金支出が増大するなか、少ないとされている(年十数万)修士号取得者の給与措置も負担となる)
・幼稚園教諭が深刻に不足する(幼稚園教諭は約八割が短大卒、幼のみに修士号を求めれば学生は保育士資格取得に流れる)
・人材選抜機能が弱まり全体の質が下がる恐れがある(待遇の改善がなければ倍率を確保できない)
・結果的に教職の専門職性が下がる(魅力が下がって資質低下をひきおこす)
■教育実習一年化に関する問題点
・「日本の教育実習期間は国際的に短い」への反論(初任一年間が条件付採用、人手不足に起因した学校ボランティア等の活発化)
・実習校に丸投げせずに体験を省察できる場を創出する場合教員のコストが増大(宿泊費、交通費、実習観察時間等)
・現場教員の負担(大学教員との連携、常にみられ報告される精神的負担)
・学生が実習に専念できる身分保障が不可欠(インターンとして一定の勤務を行うなら報酬支払い義務が発生。アルバイトもできず生活費や交通費もかかる)
・危機管理体制の明確化が必要(学生のおかれる精神的状況への配慮。トラブルを起こしたもしくは巻き込まれた場合への対応)
・大学における専門教育の確保が必要となる(実験で毎日通うことが必要な領域など)
・実習中の教育効果の実証的な検討が必要(アメリカの調査では長期化により現状追認型の教師が育つという結果も)
■教員免許の改革に関する問題点
・都道府県知事→文部科学大臣という授与権者変更(大学が教員養成カリキュラムを自律的に構成する余地が縮小、規制緩和や地方自治の流れと逆行)
・教師教育の再統制化(各種必修科目の新設等)
・一線を越えたカリキュラム統制(教員養成の「モデルカリキュラム」)
■大学の使命が失われる懸念
・大学は「教員養成」機関である前に「教育」機関(高等普通教育の機能が担保されなければならない)
・大学は教育内容に対する政治的影響を相対化し学問に根ざして教員を養成する使命を負う(「教員供給機関」となれば自由な議論ができない)

感想

なにげなく手にとってこの文章をみつけたのですが、たたみかけるようにこれでもかこれでもかと挙げられる理由に圧倒されて一気に読みました。
私はこれまで教員養成の六年制化には賛成でした。自身もその流れをくんで現段階において取得可能な専修免許(意味合いは違いそうですが)の取得を目指しています。研究の作法をきちんと体得することで、実際に現場で子どもに伝えられる内容の幅が広がるように思うことなどが理由です。お給料アップもあるかも、でも二年間現場にでてるか学生かの収支はおそらく埋まらないですね。
ただ、この文章を読んで、この先の見えない不況が各方面で改革推進への摩擦を非常に増大させているなと思いました。かなり痛みを伴っている・・・それをしょうがない必要悪ととらえるか、配慮して練り直しを行うか。重要な点をいくつも指摘してくださっているので、考えるポイントは多いでしょう。
個人的には採用試験を受ける人数が少なくなって資質が低下するという点には同意しかねます。裾野が狭まるという点においてはそうかもしれませんが、専門性を身に着けるために二年間学んだ状態のはずなのだから倍率が低くなることが資質の低下を意味するとは限らないはず。(と思いたい)
他にもいろいろ後から書きたいことが出てくるかもしれないので、そのときは追記します。今から迎えにいく準備をしないと・・・

教師のリヴォイシングの相違が児童の聴くという行為と学習に与える影響(一柳智紀)

今日は朝早かったので一日が長く感じました。
1限:教授の博士論文を中心に読んでいくゼミ形式の授業
11〜16時:フセイン・チャラヤン展@東京都現代美術館(とてもよかった!!!)
17時:家でごはん食べてダウンを着込んで再び学校へ
5限:学校と社会情勢や政策とのinteractionにまつわる授業
6限:5限と同じ先生&教室で迷ったけど帰ってきちゃったという・・・

今回はこの論文について。

一柳智紀(2009).教師のリヴォイシングの相違が児童の聴くという行為と学習に与える影響―教育心理学研究,57,373-384

1限の先生が「発言しない子どもも自己内対話を行って学習を深めている」とお考えで、一柳さんも似たスタンスかなと思ったので図書室で探してきました。
この論文は修士論文の一部を加筆・修正して同誌に掲載された二本のうちの一本です。もう一本のタイトルは「児童による話し合いを中心とした授業における聴き方の特徴 : 学級と教科による相違の検討」。
■目的
一柳はバフチンを引用しつつ「聴く」という行為を他者の言葉との「内的対話」と捉える。リヴォイシング(revoicing)とは、「議論の中で他の参加者によって行われる、口頭もしくは書き言葉での、ある児童の発言の、ある種の再発話」。
そのリヴォイシングには、
・児童の発言と「内的対話」を行う機会を増やす機能
・位置づけによって話しの流れを意識した「内的対話」を可能にする機能
・「著者性」にも意識を向けた「内的対話」をも支援する機能
があると仮定。
■方法
それらを検証するために、二人の教諭の社会科の授業を観察。
直後再生課題(授業直後に覚えていることをできるだけたくさん書く)と内容理解テストを行う。
■結果
・児童の発言を主題に即して整理する長谷川学級→話し合いの流れを捉えて複数の発言を一つの文章に統合して再生。文脈に即した理解を測る問題において高い成績。
・個々の発言内容を明確化する上嶋学級→「著者性」を維持したまま自らの言葉で発言を捉えている。記述問題において高い成績(特定のトピックについて自分の言葉で捉え直せる)。
■考察
・リヴォイシングが元の発言を自分自身と結びつけて聴く機会を多く児童に与えることで、話し合いの中で聴くという行為を支援する。
・教師のリヴォイシングの違いが、話し合いの中で何に注意をむけて聴くか、どのように聴くかといった聴くという行為の二つの側面に影響を与え、異なる支援をする。
■残された課題
・発言内容の重要度と教師の応答を関連付ける必要
・個人の聴くスタイルに焦点をあてる必要
・時間的変化による支援方略の変化も考慮する必要
・他教科との比較によって教科による違いを明らかにする必要
・他の要因からも複眼的に児童の聴くという行為を捉える必要
・再生課題のみならず授業中のワークシート等他のリソースと組み合わせる必要

感想

読みやすく興味深い論文でした。これ修論か〜。
1限の授業で話題に出た
・一般化可能性、妥当性への意識
・視点を決めた焦点化
・質的心理学と量的心理学双方の利点をとる
といった点が実現されていると思います。
この論文が質的か量的かといえば多分量的だけど、
問いや考察は質的観点によっており実証や分析は量的手法に基づいている・・的な・・・気がする・・・・のですが、そういう言い方をするのかわからないし見当違いかもしれません。
この論文のようにリヴォイシングを規定することによって、リヴォイシングによる学習支援の方略が整理されていると思います。
リヴォイシングってまず思い浮かべたときに出てくるのは発言を「つなぐ」「もどす」際のクッション?とか強調して記憶に残らせる?とか時間稼ぎ?とかしかなかったな;あとは発言やその主体を認めているポーズとしても機能するのかな?とか。(これについては論文の「保証された推論」という部分が近いのかも。)そういう大雑把な捉え方だと何も見えてこないけど、こういうプロセスでこういう結果が得られるんだっていうのがわかりました。
んー、批判的検討が足りないので試みてみるけど残された課題で言われてしまっている。再生課題でどこまで文章化するかに個人差があるだろうこととかもともとの学力の差というノイズをどう捉えるかとか?けど全てのノイズをなくすのは無茶な話だし。
ひいてあった論文のなかでは
南博文(1991)事例研究における厳密性と妥当性―鯨岡論文(1991)を受けて―
が気になったのでそのうち読んでみます。
ふう。
にしても統計ってやっぱ必須なんだろうな〜。。。。。
といいつつきっと同じコマにある国文のゼミをとってると思います。